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歴史

毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を倒して厳島神社を

2017/08/03

毛利元就というと、何と言っても厳島の戦いですよね。3000程度の兵で、陶晴賢2万の兵をやぶったということで、桶狭間の戦いともに、未だに語り継がれる大勝利ですよね。戦いの後、毛利元就は厳島神社に参拝したとかその時何を祈ったのでしょうか。

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毛利元就と言えばやっぱり厳島の戦い

毛利元就っていうか、戦国時代の合戦の中でも厳島の戦いは、未だに語り継がれているほどの勝負ですよね。

何たって毛利軍3000かそこらの兵で、陶軍2万の兵を打倒したってことで、この後の毛利元就の勢いは止まらないってカンジで、西国一の戦国大名になるんですからね。

そんな厳島の合戦ですが、やはり策略家の毛利元就ってことで、実際は合戦の前に勝負がついていたというか、着々と策を打っていますね。

まずは、相手方の戦力をそぎ落とすということで、陶の家臣である江良房栄を策略にかけます。

江良房栄は陶軍の中でもきっての名将で、元就も以前一緒に戦っているので、その力量は良く分かっていて、彼がいなくなると随分ラクになるってことみたい。

というのは、江良房栄も元就の力を良く知っていたので、陶晴賢に和睦を勧めたとか。

それを知った元就は、まずは家来たちにも江良房栄が内通している旨をほのめかせ、陶軍内にも間者を放って、そういう噂を立てる。

それだけなら、まだ信用度がないってことで、祐筆に江良房栄が元就に内通している様な手紙を書かせて、家来に見せる。

家来の中には、陶軍に内通している者がいるのを見越しての作戦。そこまですると、陶晴賢も疑いをもって、江良房栄を誅殺してしまうんですね。

ってことで、戦う前から相手の戦力をそぎ落としていくというのは、兵力だけなら圧倒的に不利ですからね。その辺も知将っていわれている元就の作戦です。

そして、もう一つは、これまた全面対決の前に、厳島(今の宮島)に城を築くんです。宮尾城って言う城。

これは、元就の家臣が全員反対したのに、それを押し切って作ってしまったんですけど、作ったあとで、「ああ、あの城を作ったのは、元就一生の不覚」って嘆いて見せるんです。

で、宿老の桂元澄に陶晴賢に内通の手紙を書かせて、「厳島の城を築城したのは、失敗と嘆いている。城から攻めると、元就も厳島に渡って戦うしかないから、そうすると、本城はガラ空きになるから、私がそこを奪う。成功の際には陶殿を郡山に迎えたい」ってカンジ。

そうすると、単細胞の陶晴賢は海路で厳島に渡って来たから、元就の思うつぼって事になったという訳です。

もし、これが陶晴賢が、陸路で安芸というか今の広島ですが、そっちに向かってきたら、いくら元就でも、10倍近い兵力には勝てなかったと言われています。

厳島という狭いところで、敵も逃げ場がないところだったこそ、嵐の夜の奇襲ということもあり、10倍違い兵力をものともせずに、元就の勝利になったというのが、歴史研究家の一致した意見なんですよね。

そういう意味では、宮尾城を作って失敗した、失敗したってぼやいていたっていうも、ボヤキの元就とも言われたのがよく分かりますよね。

毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を

そんな訳で、陶晴賢はまんまと元就の策略にはまって、厳島に上陸。宮尾城を攻め続けます。宮尾城も抗戦しているけど、結構厳しかったみたい。

元就はある程度は見計らっていたみたいですが、本当は村上水軍が中々到着しなかったので、それで厳島に渡るのが遅くなったとも言われています。

それが、結果としては大勝利になったんですけどね。結局9月の晦日っていうから30日ですかね。その日の夜、暴風で荒れ狂う海に漕ぎ出し、夜10時頃厳島の博奕尾の峰を越えて塔の岡背後に陣を敷いたんです。

で、夜明けとともに陶晴方の本陣に切り込んだってことで、まさか嵐の夜にやって来るとは思わないから、陶軍は大混乱。

正面からは元就の三男隆景軍が、そして宮尾城からも城内の兵たちが飛び出して、陶軍は大群故、狭いところで小回りが利かず、逃げ惑うしかなかったみたい。

陶晴賢も弘中三河守とか三浦越中守とかに守られて逃げようとしたけど、逃げるための船は村上水軍が全部焼き払ったので、結局そこで最期を迎えたという訳です。

それに一説では、若い頃は猛将としてならした陶晴賢ですが、その時は肥満のため歩くのもやっとだったとか、やっぱり歳には勝てないってことですかねえ。


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毛利元就は厳島の戦いの後で厳島神社を

ということで、毛利元就は厳島神社で陶晴賢を撃破するんですけど、当然そこには陶軍の兵たちの屍が4000とも5000ともあったと言われています。

ですから、戦いの後は血で染まった厳島神社を綺麗にして、厳島神社に非礼を詫びたと言われています。そこは、信心深い元就ですからね。

っていうのも、元就はまだ元服前に当時の継母である杉の大方と家臣とともに厳島神社に参拝しているんですね。

そこで、家臣に「殿、何をお願いしましたか」って尋ねられた時に、「天下を取る」と願ったとか。その時まだ、安芸の国人で、それも猿掛城にいたのにね。

びっくりして家臣が尋ねたら「1000程の事を願って、やっと1達成できる。最初から安芸の平定とか言っていたら、何も成し遂げないだろう」って答えたので、家臣は二度びっくりっていう逸話があります。

そんなこともあって、厳島神社っていうのは、元就にとっては特別な場所だったのかもしれませんね。
宮島潮湯温泉 錦水館


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yorezoの戯言

毛利元就、戦国武将としてはちょっと陰湿って言うイメージがありますが、現代に当てはめるとねえ。策略を駆使して闘わず勝つっていうのはスマートですよね。

ホント、英語のスマートって言うのがピッタリ。ちょっとずる賢いって言う意味もありますからね。でも、すごく家族思いだったみたいだけど。

それに、この厳島の合戦って、毛利元就58歳のときですからね。人生50年って言われた当時の58歳ってことで、本当に大器晩成。

そう思うと、未だに目が出ない私でも何とかなるとか思ったりして。はいはい、元就は小さい頃から策略家でしたからね。

何も考えてない私と一緒にされると、元就ファンから苦情がきますね。ということで、今度広島に行ったら、改めて厳島(宮島)にも行ってみたいと思います。では、良い厳島を。

※戦国武将についての記事はこちらにまとめてあります。
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